子育てにはどんな意味はあるのか?育児が育自である理由

私はなぜ結婚したのか。それは家族で幸せになる為。

子どもが三人いると、いろんなことが起こって、悩んだり迷ったり、「まさか!」ってビックリすることもあるけれど、そのたびに、手に取った本に救われたり、愚痴をこぼした相手から、新しい見方を教えていただいたりした経験は、「数知れず」。親業に出会ったのも、長男が不登校をしていることが分かったときだった。悩み事があるから学校に行けない。でも、お弁当を持って、家からは出て行っている。「これって、親には話せないってことだよね。わたし、親としてそんなに信用ないのかな? それとも、変な心配かけたくないってこと?


どちらにしても、ショックには変わりなく、「子どもの心をもっと知りたい。ちゃんと会話できるようになりたい」そう考え、たまたま仕事上で出会った先生の講座を受講することにした。それがトマス・ゴードンの「親業」。「親業」なんて聞いたこともないけれど、なぜか「ピン!」とくるものがあったの。和歌山市から、大阪市内まで何度も足を運び、「親業一般・上級講座」「教師学」「自己実現講座」を受講し、「不登校児の母親ノート法」「親力を生かした人間関係講座」の講師資格を得るまでに。


そうやって、学びを進めていくうちに、「自分のこと」「夫のこと」「親子関係」「嫁姑関係」など、わたしの心の中では大きな変化が起こってきた。「相手を変えようとするのではなく、自分を変えていく。そうすることで関係性は変わっていく」頭ではずいぶん前から知っている言葉。でも、心は信じることができずに、拒否していたみたい。学んで、自分の心に問いかけて、改めて気付いた。「わたしはどうしたいの? どうなりたいの? どうするの?」答えは自分の中にしかないと。「不安・不満を抱えた母親に、子どもは安心して悩みを吐ける?」「心配をかけていたのは、わたしの方かもしれない」。

子育てとは子どもを通して「自分が親として成長すること」だった。

笑い声の絶えない家庭にしたくて結婚した。そうだった。この人を選んだのも自分だし、この人に親がいるのも現実。そんなこと、初めからわかっていた。「この子たちの成長を見届けることがわたしの幸せ」。「だったら、あなたはどうする?」って客観的に聞いてみたの。それまでのわたしは、その場の空気が凍りつくのが苦痛で、そうならないために「自分はどうふるまうのか?」って考えて、余計なことは言わないで、相手が喜びそうなことを考えながらしゃべっていたのかも自分の気持ちは横に置いて、蓋をするクセがついていたのかも。


「周りの空気が温和でありさえすればいい」と思う。それが大きな勘違いで、自分の感情を殺してまで、空気を大事にしても、相手には「殺している」ことはわからない。我慢すればするほど誤解を生むことを知らなかった。自己実現の講座を受講して、自分の潜在意識の底にしまい込んでいた感情が涙と一緒にあふれ出して「わたし自身が変わればいい!」「変わらなければ!」「変われる!」という気持ちになった。


自分の気持ちを正直に伝えることは、決して「悪」ではなくそれは「誠意」の表れに他ならない。「自分の気持ちを大切にしたいからこそ、相手の気持ちも大切にできる!」と気付いた。加えて、自分の気持ちを正直に表すには「勇気」が必要と実感したから、相手の言葉の後ろに隠れている「勇気」が見える。相手を信頼すればこそ、「誠意」と「勇気」からの言葉を投げられるし、相手の気持ちも受け止められる。「変わる」と決めてから、気持ちと言葉を大切にして、生きるのが本当に「楽」になった


子育ては「己育て」、育児は「育自」と言われる子どもを育てているつもりが、「親」として「大人」として育てられたのは誰でもない、「わたし」だったということ。しみついた性分とお別れすることができるほどに。だから、子育ては決して無意味じゃない。