神様って何?本当にいるのなら、どうして助けてくれないの?

神様の存在。

神様って本当は何なんだろう、本当にいらっしゃるものなのだろうか、と誰しもが考えたことがあると思います。私たちは普段から、自然の中で木々のざわめき、優しく頬を撫でるそよ風や、炎のゆらぎ、小川のせせらぎにも敏感に「見えない存在」を感じることがあります。


日本には四季があり、季節の移ろいを感じながら季節に合った音や風景というものを大事にします。春には桜の花を愛で、夏には風鈴がチリンチリンと風に吹かれて鳴ることで涼しさを感じたり、秋にはススキを飾ってお月見をしたりなど、大変風情のある習わしがあります。お正月には玄関にお正月飾りをして神様をお迎えすることも、当たり前として昔からやっていることです。日本人は、五感でものを感じ、風情を味わうということでは世界一感覚が優れていると私は思っています。これは日本人として誇るべきことであり、いつまでも続いてほしいものです。

神様とは、そもそも何なのでしょうか。

世界中には色々な宗教があって、これこそが神様であると、それぞれの信者は言いますが、大きな源はみんな一緒なのだと思います。地球や人間を作ったもの、宇宙にもともとあるエネルギーが神様であり、それを姿にして現したものがギリシャ神話の神々であったり、お釈迦様やイエス様、あるいはアッラーの神だったのだと思います。


人間は弱い生き物ですから、悩んだときに何かにすがりたくなります。そのときにすがれる神様がいれば心強いものです。お寺や神社、教会などに行って一生懸命お祈りしたりして、救いを求めます。また、お守りや十字架などを身に着けたりして、神様仏様といつも一緒にいようとします。真剣にお祈りをするときには、手を合わせたり、お守りや十字架を握りしめます。何か形のあるものにすがらないと、どこに祈りをささげたらよいのかわからないからでしょう。


でも、神様は絶対ではありません。なぜかというと、必ずしも祈りを聞いてくれるわけではないからです。いくらもうすぐ召されるとわかっている病気の人が元気になるように祈っても、必ず聞いてくれるわけではありませんし、自然災害ではたくさんの人の命が失われてきました。神様はいないのではないかと思ってしまうこともあります。もちろん祈りが通じることもあります。それを奇跡と私たちは言いますね。奇跡が起きなかったからといって神様から見捨てられたのでは? と思うのは間違いです。


神様も私たちと一緒に苦しんでいらっしゃるのです。これは度々、老師の講話会で聞く話ですが、イエス・キリストが十字架にはりつけられて殺されるときも、神様は奇跡を起こしませんでした。神様ならば、イエスを助けることは容易にできたはずです。しかもイエスが息絶えるまでは相当な苦しい数時間であったはずです。その神の子イエスをなぜ神様は助けなかったのでしょう。


きっと神様も、もっともっとつらくて苦しい気持ちでイエスとともにあったのだと思います。ですが、ここでイエスを助けてしまうと、民衆たちが自分たちの犯した罪に気づかないままであると思い、あえて助けなかったのだと。その苦しみは計り知れないものだったことでしょう。

神様はいつも一緒にいる。

同じことを真言宗の空海(弘法大師)は、同行二人(どうぎょうににん)と言っています。どんなに苦しい修行もお大師様がちゃんと見守っているから頑張れということですが、四国のお遍路では常にお大師様が一緒に歩いているよ、という意味です。どんなにつらいことがあっても、ちゃんと神様仏様は見守っている、そういう力強いメッセージはなんともありがたいことです。


スピリチュアルというとちょっと怪しいと思っている人もいるかもしれませんが、これは科学でも実証され始めている見えない存在だとか、さらに大きく言えば宇宙の真理というものと近いこともあります。二十年くらい前だったらただ怪しかった話が、だんだんと科学で証明され始めているのは面白いことですね。


しかし、お釈迦様が生まれるずっと前からこの宇宙の真理というものはちゃんとわかっていて、悟りを開くというのも、お釈迦様の「気づき」であったのかもしれません。私たち人間は、目に見えるものしか存在していないと思い、見えるものしか信じられないものですが、見えないものもどこかで信じていますそれが神様ということなのでしょう。


神様は人間のみならず、命あるものすべてに宿っていると考えていいと思います。大いなる存在がエネルギーとなって私たちを動かし、日々色々な出来事を通して気づきを与えてくださっているのでしょう。