隣の芝生が青く見えるのは幻想である!体験談を交えて解説

隣の芝生は青く見えるが実は青くなかった!

隣の芝生は青く見えるが、子育てをしながら宿の仕事をし、田んぼや畑の仕事も僅かながら手伝ったりしたことで、お世辞でもご近所の方から、「よく頑張ってるね。嫁の鏡だ」という言葉をいただいていました。


辛いことがあっても、「当たり前なんだ」と思うようにすれば、いつの間にか平気になってくるもの。ただ、お隣の宿にお嫁さんが来てからは、そのおまじないも効き目が悪くなってきました。


わたしと同い年のお隣のお嫁さんは、とても可愛く快活で、比較的ハッキリした性格の持ち主でした。人懐っこく、ご近所にもとても人気があったのですが、あまりに自由奔放な嫁を舅姑は快く思っていなかったようです。わたしが古風な人間としたら、彼女は現代の感覚を田舎で通用させてしまう人。


「こんな田舎の、それも宿の若女将としてお嫁さんに来たのに、なぜあんなに自由でいられるんだろ。どうしてこの立場で自分の意見を素直に言うことができるんだろ」『女将・嫁・妻』という役目に対して、先入観や古臭い固定観念を持っていたわたしにとっては、彼女の行動は不思議に思うことばかり。彼女が何か行動を起こすたびに疑問に思って止みません。


わたしはその後も二人目、三人目と子供に恵まれ、仕事と子育てに振り回されている肝っ玉母さんになっていきます。同い年でありながら自由を謳歌しているように見えたお隣のお嫁さんは、子宝に恵まれませんでした。


『お隣さん・同い年・都会から来たお嫁さん』という共通点から気が合い、たまに二人でカラオケに行ったりお酒を飲んだりしながら日頃の憂さを晴らしていましたが、彼女が結婚してから八年目、急に姿が見えなくなってしまいました。子供ができないことや、仕事はしっかりこなしていても彼女の行動自体が家の中での風当たりを強くしていたのでしょう。夫婦間は決して悪くはなかったのですが、その家に自分の居場所を見つけられないまま、彼女は出て行ってしまいました。


いつも羨ましく思っていた彼女は、私の幻想だった。

いつも彼女の行動を羨ましく思い、妬む気持ちも少なからずありながらも、わたしには真似ができないと諦めていた時の出来事でした。ショックを受けた反面、またしても彼女が自分らしい行動に出たことを羨んでいました。


「わたしも自分の思うように行動できたらな」子供がいるいないにかかわらず、わたしは自分の思うとおりに動けません。いえ、動きませんでした。八方美人で争い事が嫌いなわたし、自らいざこざの元を作ろうなんて思うわけがなく……彼女は彼女で、いわゆる「良妻賢母で、いいお嫁さん」をしていたわたしに対して、「どうしてそんな風にできるの? よくやってるね、ほんとにエライね」という言葉を幾度となく投げかけてきました。


決して「良妻賢母やいいお嫁さんにならなくては」と思いながら実践していたのではありません。わたしにとってはそうせざるを得ない状況の中で当たり前と思っていたことをしていただけで、端の人たちも勝手にそう思ってくださいました。お隣にお嫁さんが来て、違う世界があるということを知り、やってみたいと思ってもできませんでした。


世間の方々がわたしのことをいいように解釈してくださっていたことが、かえって彼女を苦しめる要因のひとつになったのかもしれません。お互いに自分にないもの、できないことを羨んでいたのでしょう。「隣の芝生は青い」まさにその言葉そのものだったような気がします。ただ、彼女がいなくなってからわたしの心の中で何かが少し変わったような気がしました。


「立派なお嫁さんにならなくてもいいんじゃないか、頑張り過ぎなくてもいいんじゃないか」少し肩の力が抜けた感じがしました。「自分を大切にしながら生きていくのはまだ先かもしれないけれど、完璧を目指さないで、できることだけ頑張ろう」そう思うようになりました。