境大雅はなぜ宗教家の道を目指したのか?

宗教家の道へ

私は境大雅(さかいひろまさ) といいます。

昭和47年3月26日愛知県岩倉市にて、父・紘一、母・至基子の長男として生を受けました。

年子の姉と2 人兄弟で、高校の体育教師である父のもとで、本当にごくごく普通の一般的な家庭に生まれて育った人間です。

そんな私が、なぜ宗教家への道を志し、仏教徒としての人生を歩むようになったのでしょうか?

そのきっかけとしては、母が信仰していました宗教団体に、学生時代から違和感なく触れていたからということ。

そして、一番の動機は、開祖の著書にある「人間はなんのために生きるのかを、ほんとうにわきまえる」

(『法華経の新しい解釈(1)』庭野日敬1 9 9 4 年2 月1 日 株式会社佼成社)という表現をきっかけにして、

自分は何のために生まれてきて、何をしたくて今ここに生きているのか? と、20歳のころにいつも考えていた自分の一番の関心ごとを啓発されて、

世俗的な欲求を満たすよりも、悟りや目覚めへの求道心が明確にあったからです。

ちょうどそのタイミングが大学2 年の後半、進路を決めようとしていた時期でした。

姉がサイドビジネスに失敗して何百万もの借金をして、返済をしようとしているさなかに、やくざ(堅気でない人) と子どもを作って、

家を出てゆくなど、次から次へと問題が生じていたのです。

「その現実創造の真意を悟ること。そしてそれは宗教者としての歩みをするため必要不可欠なプロセスである」と

当時我が家が所属していた地方拠点の在家幹部さんに指導されて、私が出家すると境家の家族先祖代々、

子々孫々が救われるからと、その言葉を真摯に受け止めて、家族の問題も自分自身の修行によって解決、改善するのであれば、

自分の生涯をかけて本気でやってみようと出家を決意したのです。

尚、私が約30年以上信者として、且つ、大学卒業後の約16年間は専従者(職業として聖職者で生きること) となっていた宗教団体とは、

日本で3 番目に信者数を保有する宗教法人立正佼成会という新興宗教で、仏教の中でも法華経を所依の経典とする教団でありました。

その教団内で、私は大学卒業後に教団幹部の候補生として約3年の教育期間を受けて、12年ほど青少年の育成に携わっていました。

最後は地方の主要拠点であった三重県津市にて、その拠点にいる責任者の元で調整、秘書業務を行っておりました。

自己の研鑽に努力精進、修行をし、人に仏教をお伝えしながら、人材育成に携わる教育、個人指導、イベントの企画運営等をするかたわら、

人格の完成、世界平和に貢献をすることを会員さん方とともにお誓いしつつ、自らがその教えの第一の実践者であろうと、

本当に自分に厳しく専従者としての責務を果たしておりました。

得たいものとは違う!?

ただ、入職した当時は、ここには自分が探して得たいと思っているものはないんじゃないかと直感的に感じておりました。

しかし、それは自分自身の修行が足りず、自らの力量が足りていないからだと、

自らの資質を向上してゆきさえすれば見えてくるものがあるだろうと、信じて歩んでおりました。

そうした強い願いがあったのは、やはり今離れている家族の問題が解決できるかどうかの

カギを自分が握っていると思っていたからです。

それと同時に、家族の中でのケンカや、お金にまつわるイザコザを何とかしたい、

自分にとって都合のいいような状況へと変わってもらいたいという自分本位の心で、

癒してくれる人を探し求めてさまよっていました。

もちろん、実際に、私の当時の人生の分岐点には、そのように対してくださる方がいたおかげで、

私自身の精神的な苦悩をおろしてゆくことができました。

更には、家族間の問題が自らの身近な家族に起こったことで私は真理を探究する道へと誘われたという点において、

それ以外のすべてのことを感謝へと転換してゆけたという肯定的な理由を実感して、

自分の心の問題を消化できるように変化していきました。

しかし、そうなってゆけるまでには、いつも心が不自由でした。

心を閉ざして、人の喜びや楽しみには嫉妬や妬む気持ちが起こり、

素直に楽しめる気持ちや喜びを感じられる心境を完全に忘れていたのです。

人間の世界は、自分自身の視野と視点によって、見えるもの感じるもの、体験するものが千差万別です。

私の人生において悲しみや苦しみを経験してきたプロセスは、結果的に私自身の精神を非常に強くさせると共に、

人の痛みや悲しみを敏感に感じる感性と行動力を伴う人格へと、徐々に徐々に変貌させました。

人生の半数以上の月日を宗教界に属していたことで、

人の個人的な問題や、プライバシーに関することへ触れる機会が非常に多くありました。

いろいろな状況下で、信者さん個々人の苦悩をしてきた赤裸々な体験は日常茶飯事のように耳にしてきました。

人間として生まれたからには必ず避けることのできない苦しみ、

それは精神的、経済的、社会的苦悩そして、生老病死にまつわる根源的な苦悩です。

それを自分自身の人生、そして、他者の人生を通して、リアルに触れ合って、

その中から肯定的なエネルギーへと変容してゆける人間関係をどこにあっても構築することが、

私のライフワークとなってゆきました。

そして、そのような状況下に触れれば触れるほど、自分自身が切に抱いていた思いは、ただ一点でした。

それは、

人間の本質とは何か、

苦悩を生み出す問題の根本的な原因を見極めたい

お釈迦さま(以下釈尊と表記します) の観点であれば、どう見えるのか? どう触れてゆくのか?

私たち人間を含めすべての存在は、みんな仏の子。

皆、その性質を内在していながら、幸せを求めても、苦悩を繰りかえす人間としてのあり方への根源的な解決の道はないのだろうか、

という問いを、いつも、いつも、抱いておりました。そして、自分自身の視野と観点が広くなり、高くなり、深くなってゆくにつれて、

最初の最初に直感的に受け取っていたように、属しているこの教団では、

やはり私の求めているものは得られないのだろうと、感じるようになっていました。