快と不快の感覚を交互に感じながら生き続けてることを理解しよう!

目標は快とつながる

▼目標と態度との関連

目標があるかどうかと、態度や行動には関連がある。

大学の授業を受ける学生のうち、寝そべったり、ぼんやりしていたり、情報端末で授業と関連のないことをしていたり、

あるいは、隣席者を巻き込んでしゃべっていたり、という態度の学生に、進路希望を聞いてみると、

そういった態度の学生のほとんどが、自分の卒業後の進路について、「わからない」、

あるいは「何もしたくない」と答える。行き先がわからなければ、大学で授業を受ける意味もない。

意味がなければ、やる気は起こらない。

共通行動のパターンである。刑務所内にいる服役中の受刑者で、私がこれまで研修で関わった人にも、

先のことを考えたことがない人がいる。

先のことを考えないとどうなるのだろうか。

目先のことで、確実に得られると自分自身が信じられる利益を追求し、そのことによって達成感や満足を得ようとする。

一般的に、軽率、短絡的、といわれがちである。私たちは誰でも、どれぐらい先のことであっても、時間の長さに関係なく、

自由に想像して、自分に都合のいいイメージを作り上げることができる機能を持っている。

そして、考えることをしないではいられない。

それをしない、あるいはできないでいるのは、そうすることを止めているものがあるからだ。

この人たちの自由な思考を止めているものは、自由な思考が作りだした、制限的な思考なのである。

▼自分の快を知っているか

目標が明確になれば、現在の行動が意味のあることになる。意味があることは、未来に快を得る何かが達成されることである。

私たちは「快」と感じる何かを得ようとするために行動する。

得ようとする「何」かは、人それぞれによって異なるが、すべてに共通することは、たった今よりも先のことである。

自分のしたいことがわからないでいる人は、自分が「何」によって「快」を感じるのかがわからない人である。

より若い世代層であれば、これまで自主的な選択をする機会がなかったか、もしくは少なかったため、

自分の選択が自分の「快」につながるのかどうかを信じることができないのかもしれない。

また、成人であれば、大きな達成感を得る機会がなかったり、

得られた「快」を「快」と意識することがなかったのかもしれない。

しかし、生まれてから今まで、快を一度も体験したことのない人などいない。

ないと思い込んでいるのは、意識してこなかっただけである。

大きな達成感は、目標を達成したときに感じる「快」の感覚や感情と、

目標を達成するまでの過程で感じる感覚や感情との差異が大きいほど、

得られる達成感は大きくなる。差異は、時間をかけるか、より困難であるかに関わる。

時々、「ずっと不快である」と言う人がいる。不快を感じることの一つに「痛み」がある。

もし絶え間なく痛みを感じ続けていたとしたらどうだろうか。

痛みのため、夜も寝られず、食事も受け付けられず、そんな状態が続いていたとしたら、

少なくとも、健康ではいられないはずである。

もし、本当に、絶え間なく不快を感じ続けていて、それでも、普通の状態でいるならば、

それはもはや、不快ではなく、普通の状態である。

不快というより、理想が実現していない、というほうが正確である。

▼欲求の満足が快となる

本能的な欲求、食欲、睡眠欲、排泄欲が満たされたとき、私たちは快を感じている。

本能的な欲求が最小限で満たされたとき、私たちは最小限の快を得ているが、より良く生きたい、より多くを得たい、

という欲求も同時に働くため「もっと得たい」という思考が働く。

それが「足りない」という感覚にすり替わり、不快を生みだす。

快と不快を感じ分ける基準は、比較するものによる。

しかし、どのような感じ方をしようと、幸いなことに、「快」という感覚と感情は、私たち人間に備わっている人間の機能である。

私たちは、快と不快の感覚を交互に感じながら生き続けている。意識をしようとしまいと、誰もが快の感覚や感情は知っている。

目標は、本人の快とつながる必要がある。

願望と快の体験がつながったとき、強い動機が生まれ、目標となる。感情は動機を強化する。